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20世紀は戦争の世紀、 中世は戦争によって人と物の交流が活発化して経済が活性化した時代であったと言えるでしょうけども、近代における大量破壊兵器の開発により、戦争はただ無をもたらすだけのものとなりました。曇りなき煌きとダイヤモンド独特の透明感は戦時には全く不釣合いということはハッキリとしておりますね。 そういう意味でアントワープダイヤモンド市場は相当な困難に直面した20世紀でありました。 まず、供給面から言いますと、 ボーア戦争の終結後、ダイヤの流通が回復し始めると、De Beersはこのような不況に対応するため、ダイヤモンドの流通を完全にコントロールしなければいけないと考えるようになりました。そして、一挙に原石の販売量を3分の2に減らすと同時に価格を30%も値上げしたのでした。 ところが、この極端な対処法はほとんど成功しませんでした。回復しかけた業界の景気はまたまた落ち込み、1907〜1908年の冬、Amsterdamの失業者は前年の20倍以上となり、アントワープでも同様の情況となったのです。 1908年、ドイツ領の南西アフリカで新しいダイヤ鉱床が発見され、そこから大量のメレダイヤがもたらされることとなりました。そのお蔭で、アントワープとその周辺エリアでは、それらの研磨のために久しぶりに活況となりました。当時のアントワープとその周辺では合わせて66の研磨工場があり、それら事業所は合計で1,184もの研磨機械と1,500名の従業員を抱えていたとのことです。 |
メレダイヤの恩恵で、20世紀初頭より第1次大戦までの間にアントワープのダイヤモンド産業はAmsterdamを凌駕するようになりました。非常に名誉なことであるけれども、これはAmsterdam市当局の失業対策のミスによるところが大きかったのでした。それでも、アントワープのダイヤモンド業者は団体を持って活動する事の重要性を知っていたというのが勝因かもしれません。彼らは、1904年にAssociation of Antwerp Diamond Manufactures(アントワープダイヤ研磨業者組合)を設立、これは短命に終ったものの直ぐに、公の取引所として発足したDiamond Clubをより発展させたDiamond Trade Exchangeを立ち上げました。 |
上の写真は、その記念すべき第1回のミーティングが行われた場所と参加者達です。 Diamond Clubは現在でも残っておりますが、機能的には友好の場であり、実際の取り引き等はDiamond Trade Exchangeへと引き継がれてゆきます。このような公的なダイヤモンド取引所開設の動きは瞬く間にヨーロッパ中に広がり、1年後には13もの取引所が各地に誕生、相互に密接な関係を持つようになりました。 そして、第一次大戦、 開戦当時において人々は戦いが短期間で終わると信じていた、ということがどのような文献にも書かれており、結局のところ、結果としての世界大戦であり、また、2度の世界大戦を歴史で知る後世の我々はその悲惨さを常に聞かされて育ってきましたから、簡単に武力行使に訴えるという当時のやり方には違和感を思えざるをえません。しかし、欧州各国の歴史は平時よりも戦時の方が多いわけで、各国共通のものの考え方として、戦争は外交の手段であり政治の延長であったということがハッキリとしております。負ければ賠償金を払い領土を失う、責任を取って為政者が交代する、それだけのことだったのが第一次大戦以前までの戦争だったわけですね。 さて、開戦間もなくドイツ軍はベルギーに侵攻、ベルギーは簡単にドイツ支配下となってしまい、ロンドンのDe Beerからの原石供給がストップ、その地位をまたAmsterdamに奪われることとなります。この当時から既にアメリカは一番魅力的な市場であり、Amsterdamのダイヤ業者は、開戦当初において戦争に無関係を決め込んでいたアメリカへとどんどん売り込みを増やし、大いに栄えることになりました。 英国政府は、ダイヤモンド産業育成のため1917年にベルギーから500名以上のダイヤモンド研磨職人を移住させました。 1918年大戦終結、 一方のアントワープ、原石の供給も復活し、大戦の戦勝国である英仏との関係も良好でコンスタントな注文を受けるようになり、かつての光を取り戻してゆきます。この当時の特徴としては、アントワープ郊外での小規模工場の発達、雨後の竹の子のように(資料ではマッシュルームのように、という記述があります)小さな工場がどんどん増殖したのでした。 ある人たちにとって、このような小規模工場は目の上のタン瘤であったのですが、このような底辺の力がアントワープの力、奥ゆきの深いこの力強さがその後のアントワープの栄光へと繋がってゆくのでした。 1923年にはアントワープのメインストリートで大きなジュエリー展示会が開催され、多くの事業主や労働者、その家族たちが着飾ってその歴史的なイベントに参加しました。 これは一つのお祭りであり、約70のグループ2,100人が15の飾り付けられたフロートとともにパレードに参加、加えて、600頭もの馬、ラバ、ラクダやゾウまでもが行進したと言いますから、全くとんでもないバカ騒ぎだったのでしょう。 |
(イベントのポスター) |
そして大恐慌から第二次大戦、 かつて、アメリカがクシャミをすれば欧州が風邪を引き、アジアが肺炎になる、などと言われたものですが、大恐慌とはアメリカが肺炎で入院というような事態ですからね、アジアのみならず欧州も瀕死の様相。 しかしそんな事態はまだ序の口、 そのような辛い歴史の繰り返しですが、ますます悪化して行く情況は避けられるはずもなく、1930年には25,000名いたダイヤ関連労働者が数年後にはその半分となり、しかも彼らは売れるあてのないダイヤを研磨し続けたのでした。De Beerにしても、原石の販売は続けておりましたが、それが仮儒であり、決して消費者の元に届くことがないであろうことを悟っていたのでした。 1945年大戦終結、 ユダヤ人たちは、開戦とともに侵略者が入り込めないような場所にダイヤモンドを持ち込みました。それらはアメリカ、ポルトガル、キューバ、そして後にイスラエルとなるパレスチナの地にまで運び込まれたのですが、大多数は英国に逃れてDe Beers管理下になったのでした。 それらの商品が大戦後のアントワープのダイヤモンド産業復興に大きく役立ったのでした。大戦終結後、速やかにアントワープへ戻ったユダヤ人たちとダイヤモンド。アントワープは順調に復興してゆきます。また、大戦中にドイツが完全に大陸を封鎖したことで、逃げ遅れた者たちによって大陸側にもダイヤモンド事務所を存続させることが出来たという怪我の功名にも恵まれ、これが新たな出直しに一役買ったと言われております。終戦翌年の5月には既に2,000人のダイヤモンド商人と13,750人のダイヤ研磨労働者、そして200の事業所と50の大手工場が確認されております。 大戦による逃避で、世界各地にダイヤモンド市場が開かれましたが − ブラジル、南ア、キューバ、プエルトリコなど等 − それらはいずれも短命に終わり、やはりアントワープの存在感が急速に大きくなってゆくのでした。 この当時は、当然ながらアメリカの需要が景気を引っ張ったことに言を待たないのですが、研磨されたダイヤモンドの3分の2がアメリカに渡ったというのはもう強烈としか言いようがないですね。 そのようなアメリカの支えもあって、早くも1948年にはアントワープで大掛かりなジュエリー展示会が開催されました。 1960年代に入ると、経済情勢もますます安定、1964年の輸出量は15年前の5倍にも達したということです。これには1958年にブラッセルで開催された万博によるところが大きいようです。ダイヤモンド産業は、この万国博に参加し、効果的なセールスプロモーションに成功、アメリカ向けのみならずアジア向けにも売り上げを作れるようになったとのことですね。 さて、このようにアントワープはダイヤモンド産業で確固たる地位を築くことに成功したわけですけども、世界各地にライバルが続々と登場してきました。
イスラエルはその中でも最大級の脅威、なにせユダヤ人国家・ユダヤ人の心の故郷、パレスチナの地ですから世界中のユダヤ人が支援しますし、建国当初において確たる産業もなく、国を挙げてのダイヤモンド産業育成、政府首脳の意気込みも大変なもの。まさにダイヤモンドは国家的プロジェクトだったですからね。 そしてインド、工賃の安さでは他国を圧倒、メレダイヤなどの低価格品はどんどん市場をインドに取られてゆきました。 またソ連も、ウラル山脈から出る高品質のダイヤモンドを武器に国際市場に参入してきまして、それらの国々とベルギーの戦いは激しさを増すばかり。 |
(ダイヤモンド研磨専門学校) |
“Cut & Polish in Belgium”というブランドネームを残すため、若年層を対象にダイヤモンド・カッティング専門学校が開校されたのは実に有意義なことでありますね。 アントワープは他の市場と比べて多くのアドヴァンテージを持ってきました。研磨工場事業主と労働者は優れて組織化され、どのようなタイプの原石にでも対応できるという人材に恵まれました。他のエリアでは、技術は専門分野に特化されておりますから、苦手な種類に関してはアントワープへ送って、ということになりがち。当然、バイヤーにしてもアントワープ市場に一番の信頼を置くことになりました。 そして現代、 高い技術に裏打ちされたアントワープ市場、それはもちろん一夜にして成し遂げられたことではありません。苦難の道のりがあったからこその栄光ですね。 伝統的な技術とアイデアは、主に不況時において商いが低調な時に、事業主と職人の知恵によって開発され革新され、蓄えられてきたのです。 ベルギー王室の庇護と関心の高さも見逃せません。 1971年に昭和天皇ご夫妻が渡欧された折の写真です。 しかしまあ、皇室と言えども当時は日本でたくさんのダイヤモンドを見ることは出来なかったでしょうから、良子皇后の突き刺さるような視線ね、何とも言えまへんな。昭和天皇は『ひとつ買うたらなアカンかな』とかって思ってたんでしょうかね、心なしか渋い表情にも見えます。 |
Antwerp will always keep its leading position in the world diamond industry. おおきに |
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