第1章     ダイヤモンド交易の始まり

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ダイヤモンドはいつから知られていたのでしょうか?
また、いつ、何処でダイヤモンドの加工が起こり、その取引が始まったのでしょうか?
組織的に採掘されていなかったとは言え、古代ギリシャ・ローマ時代すでにインドにはダイヤモンドが存在しておりました。
しかしながら残念なことに、ダイヤモンドの詳細な質が記されていない限り、古代の文献に登場するのが本当にダイヤモンドを指しているのかどうか確信は出来ません。ここのところが、厳密に何時からダイヤが知られるようになったのかを立証することの難しさです。
古代ギリシャ・ローマの人々は、アレキサンダー大王の東方遠征の結果、ダイヤモンドに出会ったのかもしれませんね。
“De Lapidibus”の中で、テオクラストゥス(327〜287BC)は、アダマス―adamasに言及しております、“ペリエゲテス”という詩の中の描写なのですが、
『リパイック山脈(今日のウラル山脈)の山中で、光り輝くadamasが見つかり、後にインドでも同様に煌めくadamasが探しあてられた・・』と。
プリーニによる“Historia Naturalis”(60AD)の中では既に、硬度や結晶の割れ目等、石の質についての記述も見られます。
彼らは明らかにダイヤモンドについて語っていると思われます。
インドにおけるダイヤモンドの商いと加工は、西洋のダイヤモンド産業の勃興と興隆以前に発展しておりました。しかしながら時代が進むにつれ、ヨーロッパのダイヤ産業の後塵を拝すこととなります。これは、インドのダイヤモンド鉱山が長きに渡り王家に帰属していたせいでありましょう。

17世紀にAntwerpに生まれたフランス人貿易商、B. Tavernier(下の写真の人物、インドあるいは中近東風の装束に身を包んでいるのが興味深い)は、その紀行の中で以下のように記述しております。
『インドの宝石鉱山は、ロアルカンダ王、そしてヴィザプール王のものであり、彼ら王家の所有は前世紀からずっと続いているものと思われる。』
また、Jan Huyghenは、1595年の旅行記に、
『インド産のダイヤモンド原石は、内陸部からゴア(ボンベイの南に位置する港町)に運ばれ、そこでポルトガル商人に値踏みされ商いされた。しかし、48.6crts以上(半端な数字だが、当時の計量機器の単位なのだろう)のものは、外国に持ち出されることなくゴアで研磨された。』
と書いています。

17世紀にAntwerpに生まれたフランス人貿易商、B. Tavernier


ところで、インド人はどのようにしてダイヤ原石を研磨していたのでしょうか。
当時は、直径3フィート(約90cm)の木の円盤をゆっくりと回転させ、少しずつCut&Polishするという非常に能率の悪い手法だったようです。しかしこのやり方は、過ぎゆく時の流れが僅かずつしか感じられない瞑想的なインドにおいて、なんら不都合なものではありませんでした。しかも王族は、取引のためではなくて自分たちのために研磨させていたのですから、全く急ぐ必要はなかったというわけです。ダイヤモンドの研磨に従事していた人たちは、自由を制限された奴隷であり、利益にも仕事の質にも無関心であったことがこの非効率に一層の拍車をかけました。
前述のフランス商人、B. Tavernierは、インドで研磨され始めた初期のころのダイヤモンドを多数母国へ持ち帰っておりますが、1668年には以下のようなものをルイ14世に販売しております。


インドで研磨され始めた初期のころのダイヤモンド


ご覧のように非常に歪(いびつ、不規則)な形状ですね。
インド人は、ダイヤモンドが元来持っている美しさと透明度に価値観を見出しておりましたから、それらを妨げる欠点やアラを取り除くことのみに意識を集中していたようですし、当時のカッティング技術は非常に原始的な方法でありましたから、結果として、シンメトリーの悪い不規則面を多数持った研磨でもよしとした、ということでありましょう。
ですから、インドで後に研磨されたダイヤが対称性に優れ、整った形をしているとすれば(モスクワのクレムリン美術館所蔵の有名なブリオレットカット・オルロフのようなものがあれば)、それはたまたまオリジナルの原石が非常に整った形をしていたか、あるいは、ヨーロッパ起源の技術の導入による研磨に他なりません。

1868年に刊行された“ベルギーの産業と商業”という著書の中で、アーネスト・ブラッセルは次のように語っております。
『1580年ごろAntwerpに生まれたコニングという男が、ゴアに移住してダイヤモンドのカッティング技術をインドに紹介した。彼の芸術的かつ魅惑的で素晴らしい腕前は周囲にたいへんな驚きをもたらした。』
Linschotenも16世紀末のインドにおけるヨーロッパ人のカット職人の出現に言及しております。
これらのように、インドのダイヤモンド加工技術の発展にヨーロッパは多大な影響を与えて現在に至っているのです。
それでは、それ以前のヨーロッパに目を向けて見ましょう。
ヨーロッパにおいて十字軍の余波は途方もなく大きなものでした。
1096年から1270年の間に、キリスト教徒巡礼の聖地・エルサレムをイスラム教徒の手から奪還するため、騎士を募って合計7度の遠征軍が編成、派遣されました。エルサレムの征服には至りませんでしたが、この十字軍遠征によるところの経済効果は計り知れず、ヨーロッパ全域に大きな影響を与えました。ヨーロッパの人々は、天性の商才を持った中近東の人たちと交わりを持つようになり、中近東・アジアの人々は、その活気あるビジネスをヨーロッパに持ち込むことになりました。
イタリアの港町、ヴェニスとジェノヴァは、東洋と西洋を繋ぐ通商ルートを形成し、アジアへの玄関口としての役割を果たすようになります。そして、同時に大小さまざまな商業都市がヨーロッパの各地に誕生することとなり、多くの文化や技術、発明や考案が東洋から西洋に入りました。ダイヤモンド産業についての最古の記録は1377年に遡り、これによりますと、ニュールンベルグにダイヤモンド研磨の職人集団があったことが明らかです。当時の資料には、職人見習期間に関する法律が既に整えられ、ドイツ独特の職工制である‘マイスター’になる試験の規定も見られます。

十字軍以降の中世ヨーロッパにおける最初のダイヤモンド関連の記述は、13世紀に見出されます。
J. Bolmanは、その著書“宝石入門”の中で以下のように書いております。
『中世ドイツの詩から推定される限りでは、欧州大陸の最初のダイヤモンド研磨機関は13世紀初頭に設立されたと見るべきである。』



(十字軍の遠征)

14世紀までに、ダイヤ研磨加工技術は既にかなりの進歩をとげていたに違いないということですが、南ドイツの主要都市は、ヴェニス商人との活発な取り引きの副産物としてダイヤモンドに関する知識と研磨技術を導入したと言えるでしょう。そして、同じことがベルギー・フランドル地方にも当てはまります。ヴェニスからベルギーの古都・ブルージュに至る街道は、ミラノまで平野を抜けたのちアルプス山脈とラインの谷間を越えて北に向かう第1のルート、そして、ミラノ経由ののちジュネーブの湖の西辺を北行、フランスのシャンパーニュ地方に出る第2のルートがありました。これらのルートによって多くの物品とともにダイヤモンドがフランドル地方(ベルギー)へ持ち込まれ取引されていたということです。

さて、同時期のフランス・シャンパーニュ地方は、のちにこの西部分が大都市パリとなって大いなる発展をとげるわけですが、この時代には早くも諸国からの街道が集中し交差する大交易拠点であり、多くの商人たちが集うため、自然発生的に定期的な大規模見本市も開催されておりました。そして、14世紀も末くらいになりますとパリではダイヤモンド・ジュエリーが脚光を浴びる事となります。

1407年、Guillebert of Metzは“パリの素描”の中で、
『ダイヤモンドやその他の宝石加工業者は一同で生活している。』
と記しております。
この記述は、彼らジュエリー職人が必ずしも何らかの法的な規定の元で職工生活を送っていたということを示すものではありませんが、15世紀始めには、既にダイヤモンド・ジュエリーの加工という産業がしっかりと根付いていたと考えられます。

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