◆ ベルギー カラーダイヤモンド買い付けレポート 2004年9月 Page: 1 2 3 4


70年と言われるプロ野球の歴史であるが、そもそもの始まりは、高校野球に力を入れ発行部数を伸ばした朝日と毎日に対抗しようとした読売新聞社長・正力松太郎の発案による。この方は非常なアイデアマンだったようでね、小学生の時に伝記を読んだ記憶があるが、今なら誰もが必要不可欠な新聞の番組欄ね、当時はラジオしかなかったが、これを日本で最初に始めたのが正力氏だそうだ。この頃は落語が人気番組で、その噺の粗筋なんかを読売新聞が番組表とともに掲載する事によって発行部数を伸ばし大新聞社の礎を築いたとか。他の新聞社は最初 「アホなことやってるなあ、紙の無駄遣いで倒産するぞ」 とバカにして問題にもしなかったそうであるが、やたら評判が良いので追随せざるを得なくなったとのこと。番組欄なんて今ならごく当たり前の事やけどね、最初はホントにセンセーショナルなことだったみたいだ。
そんな正力松太郎が立ち上げた読売ジャイアンツとプロ野球組織、戦争で疲れた国民を大いに励まして発展を遂げる事になる。時は流れて、ジャイアンツは正力松太郎の息子・亨(とおる)がオーナーになるが、こいつがまた父親に似ないどうしようもないアホでね、プロ野球史上に残る大きな汚点の一つ ― 汚点は今回のストを含めて3つくらいある、最悪のものは約35年前の八百長事件だろうが、もうひとつ野球ファンにとって嫌な思い出がある、約25年前、ウッキー達が学生時代に起こった ‘ 江川問題 ’ − を引き起こす。今現在30代半ば以降の人であれば記憶にあると思うが、それよりも若い人は知らないだろう、ホント後味の悪い事件だったね、江川卓が引退してから15年くらい経つのかな、作新学院時代から豪腕でならした江川は今から考えるととんでもない怪物だった、ウッキーより3つ年上だから残念ながら高校時代に対戦する事は出来なかったが、同級生だったら対戦できたのか? それも大いに疑問だが、いやまあとにかく高校時代から球の速いことキレの凄いこと、松坂の10倍は凄かった。3年生の春のセンバツが彼の実質的なデビューだったが、打者の手元でググッとホップするかのようなストレートに対戦相手の高校生達の多くは当てるのが精一杯という感じだった、その為にバントの構えからのヒッティング、いわゆるバスターがこの時より作戦として一般化することになる、江川登場の副産物と言えるだろう。このセンバツは確か準決勝で広島商の小技と足攻に敗戦、夏の選手権も雨中の熱戦で銚子商に敗れることになる江川だが、味方のあまりに貧困な打線と拙守が原因でね、江川自身の評価というのは落ちるどころか益々ウナギ上り、あの球威なら即プロで通用する事は間違いないというのは誰もが言っていたけども、どういう訳か法政大に進学してしまう、神宮の舞台の方が魅力だったのかな。
その4年後、ドラフトでどの球団が交渉権を得るか、この当時は逆指名とか自由獲得枠とかはなかったから抽選で当てるしかなかったのだが、大きな注目を浴びる中、なっ、なんと、ドラフト会議前日にいきなり読売が江川とともに記者会見、江川の読売入団を発表してしまったのである!!!
これって一体どういうこと?!?!
前年度のドラフトで指名された選手に対する交渉権というのはドラフト会議の前前日までという決まりが当時あってね、前日に入団交渉がまとまったとしても事務手続きがややこしいという配慮からだったのだが、その「空白の1日」を使ったというわけだ。もちろん江川はこの年の4年生だから前年のドラフトには全く関係がない、空白の一日を利用するなんていうのは横紙破り、ルール違反も甚だしい行為、許される入団契約じゃない。ドラフト会議は読売不参加で予定通り行われて阪神が江川との交渉権を引き当てる。ここからが第2幕の始まりだ。
世間だけじゃなしに国会の予算委員会まで ‘ 江川問題 ’ で紛糾する有様、争点は職業選択の自由かルール破りかということだったが、今回同様で真面目に考えれば考えるほど馬鹿らしくなってくる fuck you ! と叫びたくなるクソ野郎どものオンパレード。
そもそも江川の後見人として四六時中横に付いていたのが自民党代議士の船田、元NHKアナで参議院議員の畑恵さんとの ‘ 失楽園 ’ 騒ぎで名を馳せた船田元のオヤジだ、というところからしてスポーツマンらしくない銭金ドロドロの印象で非常に不快だったな。どうでもいいが、この船田親子もかなり変やな。
一方、馬鹿オーナーの正力亨は読売のプロ野球界脱退と新リーグ創設プランというブラフでもって強行突破を図る、“ 巨人大鵬卵焼き ” の残照が残っていた当時である、他の11球団は成す術もなくオロオロするばかり。
結局この始末は、当時の金子コミッショナーの 『 強い要望 』 ということで 「 江川の阪神入団 → 江川の阪神から読売へのトレード」 を1時間でやってのけるという離れ技でもって無理やり解決されたのであるが、どう考えても滅茶苦茶なストーリーですな、こんなことが許されるのであればルールなんて要らないわけで、青少年に与えた負のインパクトは計り知れないものがあったし、力のある者は何をやっても通ってしまうという悪しき前例が日本国内に蔓延したと言っても過言ではないね。

日本プロ野球機構、プロ野球実行委員会などともっともらしい名前を付けているものの実質的には 『 読売幕府 』、将軍様か老中か知らんけども、一部の権力者の言いなり思い通りにしか物事は進まないという超時代遅れな恥ずべき体質の組織はこの時に完成されたと言えるだろう。
実にもって興味深いことに、この時、江川とともにスターダムに登ったのが現大老のナベツネである。
当時のナベツネがどんな役職に就いていたのかは定かではないが、江川入団によって阪神に交換トレードされる事になったエースの小林に対して “ 阪神行き ” を説得したのがナベツネだったのである。
この時の笑い話がある、元々野球には全く興味なくてクソ野球オンチのナベツネ、驚くべき事に、オーナー就任直後、打者が打った後に3塁へ走ってはいけないというルールをどうしても理解できない時期があったらしい、そんな奴だから自社のエースの顔も知らなかったのだ、悩める小林に付き添ってきた友人に対して一所懸命に 『 小林君、野球界のため、ここは耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで阪神へ行ってくれ 』 と頭を下げたとか。あまりに理不尽な出来事、小林は当初、引退を強く希望したらしいが、こんな馬鹿の寄り集まりたちとの心中こそ余程バカと考え直したのだろうね、潔く爽やかに阪神入団会見した姿は国民の胸を打ったのであったなあ。
この後しばらくして、世間の評判を一挙に落とした馬鹿将軍・正力亨を追い落とし政権を掌握したナベツネ大老であるが、読売の人気を背景にしたブラフで問題解決出来るということだけはバカ将軍から学んだようだ、この後ますます読売の横紙破りが激しくなっていくのである。元々ドラフトはメジャーリーグやNFLと同じように完全ウエーバー方式と言って、前年度の下位チームから欲しい選手を指名してゆくという単純なものであったのだが、何とか江川を獲得するチャンスを増やしたい読売の提案を受ける形で、指名重複の時は抽選、という方法に改められたのであった。自ら提案し改定されたルールを破ってまでの江川獲りだったのに、ナベツネ政権成立後も読売の実力が低下してきたと見るやドラフト制度改悪し大昔に戻ったような自由獲得枠の設定、実績のある選手を他球団から横取りするためのFA制度を創設というような勝手気ままな振る舞いが続く。もちろんこれらに関しては反対意見も多かったのだが、その度に機構からの脱退、新リーグ創設をチラつかせたわけだ、ホント汚い野郎だ。
結果どうなったか?
契約金、年俸の高騰、当たり前の話やな。
ほとんど試合に出てない清原が数億円?! ホンマあほな話やねえ。
さあ言うてみてくれ、億万長者は誰が作ったのか。

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◆ Back Number ◆
2005.07 Cut & Polished in Belgium
2005.04 ルフトハンザで出国
2005.02 オリーブの漬物
2004.11 ベルギーの初冬
2004.9 上手なブラフの使い方?
2004.8 2004アジアカップ
2004.4 ゴールデンウィーク に オランダ を想う・・・。
2003.11 Believe me!
2003.7 Vacances!
2003.5 日本とベルギーの規範
2003.3 ベルギー名物と言えば
2002.9 空港のネーミングについて
2002.5 ワールドカップ
2002.3 ひな祭り
2002.2 ユーロとトラブル
2001.12 プリンセス雑感
2001.11 ニューヨークの思い出
2001.9 不景気とは
2001.7 女子テニスプレーヤーというのは宝石だらけで戦っている・・・。
2000.4 ファンシーカットの好みは各国でかなり違うようだ・・・。
2000.2 天然の物が相手になるがゆえのつらさ、というのが常にある。
1999.12 私はダイアモンド業界ではゴルフの世界の尾崎みたいなものだ、といって自己紹介することにしている・・・