第5章     ダイヤモンド事業の混乱から安定への歩み

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ギルドの誕生直前から様々な混乱を何とか乗り切ったアントワープのダイヤモンド業界、17世紀はまだこのギルドを中心とした活動が続きます。

当初の“ダイヤモンド&ルビー共同ギルド”というのは1年半くらいしか存在しなかったという事実がございました。
1584年6月、ギルドはダイヤとルビーの2つのグループに分かれます。最初から2つのグループの融合体であったのが、人事権などの問題に直ぐに直面し、その部分の対立を解消できぬまま分裂という方向になってしまったのですね。
この情況は非常に良く理解できます。こういうことを言っては多分に語弊があるのは覚悟ですけども、元来、我々ダイヤモンド屋はルビーやエメラルド等を扱うカラーストーン屋を一段低く見ているところがございまして、目クソ鼻クソと言われればそれまでなんですが、『所詮やつらは色石屋、ダイヤモンドあってこその色石、あんな辛気臭い商売ようやってるな』みたいな意識が常にある、ですから奴らがダイヤモンド屋と同等の権限をなんて言うことには、『アホかいな、何を寝ぼけたことを』というような態度に出てしまうのは洋の東西を問わず、また何百年の時間のズレに関わり無く感覚的に分かります。

事実、ダイヤモンド研磨側にしてみれば、ルビー職人たちが離れて行ったことは全く損失でもなんでもなく、逆にルビー研磨業者たちはそれ以降2年間、自立しようと努力しましたが、ルビーの研磨と取引の重要性が低下し、17世紀の半ば以降彼らの活動はほとんど廃れた状態となってしまったようです。

さて、1610年ころ、ダイヤモンドギルドは財政的に非常に安定して参りました。
1613年、ギルドメンバーの一人がギルド所有となった不動産のひとつを借りて住むことになったのですが、これ以後同様のことが続けられるようになりました。う〜む、余剰金で不動産投資ですな、現代と同じで面白くも何ともない、バブルがはじけて・・・なんてことにならなかったのか?!

ウッキーの心配?いや期待?!を尻目にギルドは、メンバー数を順調に伸ばし、仕事の名声も益々高まってゆくのでありました。
1618年、ある絹織物業者によって書かれた資料があります。その中で著者は、ダイヤモンドギルドとダイヤ取引の興隆を以下のように絶賛しております。
『現在ほど商業活動が活発化したことがこれまであっただろうか。また、これほどダイヤモンドを始めとする宝石の取引が繁栄を極めたことを聞いたことがあるだろうか。Antwerpはまさしくダイヤモンド流通の中心であり、これを作り上げたのはポルトガル商人やオランダ商人ではない。ギルドがよく組織化され、自発的な法令を施行してきたせいである。Antwerpダイヤモンドギルドの名声は、フランクフルト、ハンブルグ、ロンドン、パリなど(ヨーロッパの)全ての国と都市に響き渡り、全てのダイヤモンド業者にこの町に住んで商売をやりたいと思わせるようになったのである。恐らく3、4年後には、ギルドに所属する事業主の数は400近くになるであろう』

なんとまあ、当事者とすれば居心地が悪くなるくらいの褒められようでんな、ギルド幹部の『いやまあ、それほどでも・・』というような照れようが目に浮かぶようでございますね。

いやまったくねえ、十数年前のバブル真っ盛りの頃、冗談ではなくて当時の大阪で3本の指に入ると言われたバイヤー・ウッキーでござますが、ホンマやでえ、なんせ年間合計100日近くも海外出張生活してましたから半端やおまへん、幼子二人を抱えた家内は大変だったでしょう、今そのツケがウッキーに回ってきておりますが、
とまあそれはいいとしまして、
その頃ウッキーもシミジミと思いましたネエ、
『Antwerpに住んでダイヤの商売したーーーい!』
この思いは家族と長く離れていたくないということはもちろんなのですけども、それよりもエキサイティングな買い付けの現場に常にいたいという気持ちの方が強かったように思いますね

現在ではもう数も減ったようですが、日本のバブル最盛期のAntwerpには30人を越える日本人バイヤーと現地独立組が居を構えていたようです。
この30人という数字、多いのか少ないのか、いずれにしてもピンと来る数字ではないですね、比較対照には同時期の他の市場を見る必要がありそう。当時は4大マーケット(アントワープ、イスラエル、インド、アメリカ)が日本への供給源だったのですが、他の3市場に居を構えるダイヤモンド関係者はせいぜい数人だったということを考えますと、いかにAntwerp市場が立地条件と買い付け環境に優れていたか良く分かりますね。

今は?
日本人バイヤーの姿すら見なくなりましたね、来てはいるのでしょうけども、ウッキーと同じように超短期滞在、1週間を超える出張なんて全く考えられないですね。

・ ・ ・

いつの時代どんな業界でもそうですが、
好事魔多し、突然に混乱と動揺が走るものです。
絹織物業者が絶賛の文章を残したまさにその年、Antwerpの絹織物従事者たちがフランスからの安い製品の流入に苦しむことになったのでした。彼ら業界団体は、アントワープ総督Albertと総督婦人Isabellaに絹製品の輸入禁止を訴え、その措置を得ることに成功しましたが、フランス王はこれに対抗して、研磨済みダイヤモンドの輸入禁止という強硬手段に打って出たのでした。

ヨーロッパのあの辺りというのはEU以前から自由貿易圏と思ってましたが、そうでもなかったのですね、大国の横暴に泣く小国の悲哀はいつの世も同じということでしょう。
実際、フランス王は自国のダイヤ研磨業者からの陳情を受けた上での措置、絹製品云々は単なる口実だったようです。

いずれにしても狙いうちにされたAntwerpダイヤ研磨業者はたまりません、当時既にパリはヨーロッパで最高の市場、その市場なくしては流石のAntwerpのダイヤモンドも立ち行かない、彼らにとってハリケーン並みの大災害であり、彼らの狼狽ぶりは大変なものだったと推測します。

この災害をどう乗り切ったのか?
パリへ大挙して移住しようという極端な話も真剣に討論されたとのこと。
結局、口実であれ騒動の発端である絹製品の禁輸措置解除によりフランス王も矛先を納めました。フランス側としても、ベルギーやアントワープというのは勢力圏内に置いておいて損はない、あまりにも冷たくして完全にオランダ側に付かれてしまっては元も子もないという思慮が働いたと思われます。いずれにしてもAntwerp=Diamond、ダイヤ研磨業者は17世紀前半の50年、完全にアントワープの産業の中核をになう存在になっていたと言えます。

ところで、
日本では商売繁盛を願っての神頼みはごく当たり前、
関西ではやっぱり‘えべっさん’ですな、ベッピンの福娘で有名な今宮戎(えびす)神社や快速福男を決める西宮戎神社がビジネス関連?!寺社として有名でありますが、ヨーロッパのキリスト教社会にはそのような“神頼み”という習慣はないのかという疑問が常にありますね。

ユダヤと取り引きしておりますと、宗教を常に意識させられるのですけども、宗教的に真面目な者も不真面目な者も、結果としての商売繁盛を神に感謝するということはあっても、将来的な商売に関して神に祈るというようなことはないような気がしますね、これはキリスト教世界でも多分同じじゃないかと思います。
インド人はどうなのか?
輪廻転生、因果応報・・・、他どのような言葉で表現すれば良いのか、インドの風土から自然発生したヒンドゥー教、そして釈迦と仏教。彼らインド人ほどスピリチュアル、精神世界に重きを置く人種はないのではないかと思われます。彼らは、我々バイヤーとの出会いも神によって定められた事、偶然ではなくて運命なのであるという捉え方。ですから、その取り引きによってもし不都合やマイナスが発生した場合でも、神による匙加減であり神が与えた試練と解釈するわけです。
そういう彼らが神に対して商売繁盛を祈るのか?
それもちょっと考えられないですね。

それらのような宗教風土からは当然ながら“えべっさん”は誕生しませんね、
ヨーロッパにしてもインドにしても、存在するのは“守護神”ということになります。
日本で守護神というとサッカーのゴールキーパーであったり野球の抑えの切り札であったりですけどもね。
そんなようなことを念頭に以下の文章をお読みください。

1642年以降、ギルドはHouse of Doedrechtという邸宅において、その活動の主だった決定を行ってきました。彼らはその場所を賃貸契約して使用していたのですが、1663年、古参メンバーがHet Vosken(the Little Fox)という邸宅を買い取り、部屋を大改造してギルドの会合などに使用することとなったわけです。
その大きな会議室には、当時の有名な画家であるPeter Tassaertとその息子Jan Peterによる聖ペテロと聖パウロの生前の8シーンを描いたものが飾られました。
この邸宅と絵画は、Ancian Regime(アンシャン・レジューム、旧体制のフランス革命前のこと)の終わり頃に売りに出されてしまうのですが、それまでの期間はギルド関係者のみならず、重要なダイヤモンド取り引きのための中心的な場として存在しました。

所謂ブースの発祥、ですな、
ブースとは一般的に取り引きスペースのことを言いますが、Antwerpやイスラエルのテルアビブなどではダイヤモンドの公的取引所のことなんです。このエリア(ダイヤモンド街)のメンバーでないと立ち入ることが出来ないのですが、我々バイヤーはメンバーの紹介と同伴によって一時会員として出入りできるようになっております。
どのような場所なのかと言いますと、教室を三つ繋げたくらいのスペースにテーブルと椅子が一杯ならべてあるだけなんですがね、横にレストランもありますが、まあそれだけ。
ここで何をするか?
もちろんダイヤの買い付けなのですが、何かメリットがあるのか?
ウッキーの場合を例に取りますと、常にお馴染みさん、関係の深い業者との取り引きばかり、時には違う業者と接点を持ちたい、そういう場合は良いかもしれません、不特定多数のブローカーや業者が集まってきますからね、そこで思うような商品を集められるかどうかというのは別問題ですが、とりあえずチャンスは増えるということです。

聖ペテロ・聖パウロ
 (聖ペテロ、聖パウロ)


そういう場所がそれまで存在しなかったのが不思議なくらいですけども、自然発生的にこのthe Little Foxのあたりが中心部となっていたのでしょうね、それでこの建物を買って“本丸”としたと考えるのが普通でしょうな。いずれにしても、公にもここが本部となったことで、ダイヤモンド事業主の主だった者たちばかりでなく、大商人たちもこの付近に館を構えることになって、まさにダイヤモンドの、いえ、Antwerpのメインストリートとなったのでありました。

そしてこの本部にある聖ペテロと聖パウロの絵は、それまでギルドに欠けていたものであるメンバーを結びつけるもの、結びつきを強めるための統合の象徴であり守護神とされるものとなったのであります。

ダイヤモンド研磨業者と関連労働者は、毎年のキリスト教の祝祭日にはミサを執り行い、ギルド関係者の全てがミサに行かなければいけないと規定、ギルド役員がメンバーの参加を厳しくチェック、如何なる理由があろうとも不参加は許されないとしたということでありますから、これはもう相当のキリスト教強制、何としてもペテロとパウロをもってして、その守護神の下にギルドの統制を強めようという意図が窺えますね。

しかし全く不思議なことは、ユダヤ人(ユダヤ教)の影が見えないこと。
ユダヤ人=ユダヤ教でございますから、彼らユダヤ人が自らの信仰を隠したり変えたりしてまでダイヤモンドの業界で働こうと思いません。1985年11月、20年以上前に初めてアントワープに出張したウッキー、ダイヤ業界=ユダヤ人ということには非常に驚かされたものですが、そのAntwerpダイヤモンド業界のキリスト教が如何にして何時頃ユダヤ教に塗り替えられることとなったのか、まだまだ先の話になりますが、ホント興味深いものであります。

さて、Antwerpの宝石業界における技術的先駆性というのは、単にダイヤを磨く(polish)だけではなくて、職人が芸術家の如く創造力を発揮できたcuttingにあるということを以前述べましたが、Johannes De Laetは17世紀半ばの著書の中で、“sawing of diamond”ということを書いております。
sawing = ノコギリで切断する
でございますからね、
そんなことできるのか、って?
想像できませんが・・・、
まずノコギリ、
これは当然ですが、単なる金属製のものではそれこそ歯が立たない、チタンも強力合金もないですから鉄は鉄ですけどもダイヤモンドパウダーをコーティングしてあります。何気にコーティングと言いますが、何百年も昔のことですからね、このコーティングという技術があったこと自体もかなり凄い事ですな。
そして、これを使ってギコギコやればええだけや、と思うのは大きな誤解。敵は何といっても世の中で一番硬いダイヤモンドです、木や板を切断するようなわけにはゆきませんね、しかも単純に2つにポンと割れば終わりというわけでもない、58面作るとまでは言わないけども綺麗な芸術に仕上げるにはいくつもの面を取らないといけないわけで、これはもうとてつもなく根気の要る仕事、ノコギリだけを使ってやっていては切断の途中で気力が萎えてしまうほどの重労働だったことでしょう。

下の図をご覧くださ〜い、
あまり分かりやすいとは言えませんが、
この機械は、同時に16個のダイヤを大きな円盤の上にセットすることができ、3つの部分から成る垂直に立った尖ったスティックの動きによってダイヤを切断するようになっておるということです。

Cutting Machine


しかしねえ、どうもこの機械は現実的でないような・・・、何となく図自体が出来損ないの設計図のような雰囲気があって、机上の論理だけで終ったような臭いがプンプン?!?!

ならば一体?
Antwerpのダイヤ職人とは、実はとんでもない体力の持ち主たちだったのでした、連日連夜ノコギリでダイヤをギコギコやってても全く衰えない筋肉マンたち、それが真相です、
ホンマかいな?

アントワープの良さは、技術革新を常に忘れないところ。
苦難に遭遇するたびに職人と事業主が知恵を出し合って新しい研磨方法を編み出したり、効率の良いカッティングを発見したりという繰り返しで大波小波を乗り越えて来たのです。

ですから、研磨のための機械や器具、そして方法はそれぞれの事業所の秘中秘であって当然ですね。
色々な機械類や技術が生まれ消えていったに違いないのですが、それらが文書や絵で残っていることは少ないようです。

Antwerpのダイヤ職人

上図のような少しの資料から、想像を逞しくしてゆくほかないようですね。上図を見ますと、女性が機械と格闘しているようですね、華奢
で小柄なように見受けられます。確かに時間は掛かったのかもしれないけども、この時代、既に研磨はそう力仕事でもなくなったという印象ですね。

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